怠惰と快楽の技術

あるいは勤勉の敗北

20200501

 無職1日目。だらだらとツイッターで実況しながら無料ストリーミングのオペラを2本見る。

新国立劇場『エウゲニ・オネーギン』(2019)

 去年英国ロイヤルオペラハウスのライビュでチャイコフスキーが舞台上にワラワラ出てきて作中人物にガチ恋する『スペードの女王』ってのがあったらしいんだけど、見にいきそびれて枕を涙で濡らした私です。チャイコフスキーの男性関係はここ何十年かで新公開された書簡というか恋文とかで段々新事実が発見されていたとかなんとか。最後の恋人は士官候補生だかやってる若い甥っ子だったかな。後を追うように自殺してしまったとか。

 そういう情報から何かを解釈することは上品ではないとは思うのだけど、観ている間ずっとそういうことを思い出していました。

 これってオネーギン夢小説なのでは…?

 なんていうか、恋愛ものとして観るなら滅茶苦茶な構成な気がするんですね。オネーギンとタチヤーナの恋愛のクライマックスって1番長い1幕でほぼ終わっていて、2幕は決闘、3幕でまたなんか再開して燃え上がってはいるけど、1幕の手紙のアリアほどではなく、むしろ取ってつけたようなものを感じなくもない。

 では何が主眼なのかといえば、オネーギンそのもの、というかオネーギンの没落。

 なんかもはや見た目のいい青年貴族が厭世ぶって人生負けていくの興奮しますよねくらいのメッセージをウィンウィン感じるわけです。じゃなかったら2幕がほぼ舐め腐ったことして友人キレさせて決闘するだけとか3幕があの情けない乱れっぷりだけという大胆な説明回というか構築性の放棄は説明つかないよ。これはシチュ萌えの世界でありpixivツイログみたいなもの。

 そんで、そういうものとしては大変よろしいわけです。音楽は綺麗だしね。

 

メトロポリタン歌劇場『マーニー』(2018)

 これ実は2018-2019シーズンのライブビューイングで観たんですけど、もう一回観ました。

 最初見たときは何でこんな話2018年に作ってんだよとキレて帰ったわけですけど、まあそのへんは措いておいて、衣装と美術と歌唱はかなり凄かった。舞台転換、舞台分割のアイディアが優れているし、罪悪感(見られているという恐怖感)を表象する探偵たちがマーニーを追い詰めていくという演出は映画の翻案としていいんじゃないかと思う(サスペンス映画ならではのフレームの捉え方で緊張感や圧迫感を与えてくる感じを、上手く舞台芸術に映える形に変換している)。まああんまり私プロジェクションマッピング+うねうねダンサーズって演出、好きではないんですけど。