怠惰と快楽の技術

あるいは勤勉の敗北

「舞台」の外の地獄──メトロポリタン歌劇場/トーマス・アデス『テンペスト』(2012)

 MET公式の無料ストリーミングで鑑賞。明日朝6時半までだけど、メディアプレイヤーを開いてさえしまえばブラウザにリフレッシュが掛からない限り見れますよ。

 https://www.metopera.org/

 

 プロスペローが魔術で劇場(というか、スカラ座)を出現させるという趣向。

 ステージ上には時折舞台内舞台が設えられ、「客席」の場所が変化していく(1幕では舞台後方にバルコニー席が投影され、2幕では舞台前方(見ている私たちの方、と言ってもいいが、プロスペローは舞台内舞台の前に立ち登場人物たちには視えない力を加えていく)、3幕は…骨組みがあるのを見るに、舞台裏? 終幕では下手が舞台内舞台で上手が客席という風に分割される。

 では、この舞台内舞台は一体何のためにあるのか。

 もちろんひとつにはプロスペローの復讐のためにあるのである。自分が見せたい物だけをアントニーオ達に見せ、恐怖に陥れるための装置だ。ただ、それだけだろうか?

 Hellという言葉が何度か台詞に出てくる。一番最初は序奏部で、地獄にいると思しき人々(もしくはいちど溺れ死んだ船の乗員?)が「Hell is Empty/All the devils here!」と言うのである。そして、プロスペローの復讐が済んだ時の台詞は「Now you dwell with me in hell(直訳するなら「お前たちは私と共に地獄に住んでいる」か)」。

 Hellは台詞の中だけにとどまらず、舞台上にも設えられているように見える。たとえば、舞台内舞台には地下に潜るための穴があり、人物たちが時おり吸い込まれ、消えてゆく。舞台内舞台に立っていないプロスペローは他の人物からは見えない(終幕で舞台内舞台に立って初めて彼の姿が見えるのである)。

 舞台の上に立っている人間のみが認知され、舞台の外は不可視。これは、弟アントニーオに謀られ葬られたプロスペローの境遇とそっくり重なる。

 Hellとはプロスペローの境遇である。舞台内舞台における客席はHellを体験するための空間で、ゆえにアントニーオは舞台内舞台の反対側へと消えていく。

 娘も魔力も復讐心も失った後のプロスペローに残されているのはHellのみであり、それは"Empty"である。エアリエルに対する最後の願いが"Save me! ... farewell."なのも、去り際の言葉が"I'll rule in Milan Beside my grave(私はミラノを統治するだろう、私の墓の傍で)"なのは何とも虚ろである。また、ミランダへの恋に敗れプロスペローの残して行った劇場に佇む怪物キャリバンと、ただひとり上の方(=Heaven、でしょうかね)へと消えたエアリエルの声だけが残る仄暗いラストもよかった。

 

 誰を置いてもまずはエアリエル役のオードリー・ルナを賞賛したいのだが、この役というかトーマス・アデスの配慮には大分疑問がある。『皆殺しの天使』(2017)を見たときにも、ソプラノ歌手の声帯ひいては歌手生命を何だと思っているんだろうか……と思うような箇所が少し気になったのだが、こちらはその比ではなかった。エアリエルのパートはほぼ全編を通してト音記号で言うなら加線が2本〜3本は付いているような状態。有名な「夜の女王のアリア」の一番高い声の音を何度も絶叫させられている、と言えばちょっとその恐ろしさが伝わるだろうか。

 サイモン・キーンリーサイドは実に大胆な出で立ちで鬱屈としたプロスペローを好演していたし、イザベル・レナード(『マーニー』のタイトルロール)やイェスティン・デイヴィース(『皆殺しの天使』フランシスコ役、『マーニー』テリー・ラトランド役)の若い姿を見ることができたのも嬉しかった。もう一つだけMETにお願いしたいことがあるとしたら、新作オペラを作るときに、カウンターテナーにもうちょっといい役を与えて欲しい……(私が見た範囲でも、犯罪者、近親相姦、無理やり兄の妻にキスする人って、酷くない?)