怠惰と快楽の技術

あるいは勤勉の敗北

20200522

 朝はMET「トゥーランドット」(2019)を見る。慣習的演出をちゃんと見たのははじめてかもしれない。このまえの新国のトゥーランドットがリューの自害にショックを受けて後を追う解釈は確かに素晴らしいし、今度はトゥーランドットが今まで殺した王子たちとリューの亡霊に追い立てられてカラフの元に走るみたいな爆発追いかけっこエンドみたいな演出ってどうかしら、とかぼんやり思った。

 昼はNTLive「欲望という名の電車」(2014)。ジリアン・アンダーソンのブランシュがとにかく素晴らしいと思った。台詞のリーディング一つ取っても凄かった。アクセントの部分を長く伸ばすあの特徴的な発音は、ある種の艶っぽさから段々と現状を否認する子供のそれへと形を変えていき、最後の台詞ではそれも失われる。見たあとにsaebou先生の感想を読んでなるほど〜と言っていた(小学校の芸術鑑賞会とか除くと、演劇って、ライビュ含めて3回目とかで…何もわからない…)。あとスタンリーは個人的には見ていてguilty pleasureを覚えてしまう造形だったのだが、戯曲の作者がフラタニティの加入儀礼で男たちに尻を棒で叩かれて“扉”を開いてしまったみたいな記述をあとで見せてもらって放心してしまった。

 夜はノルウェー国立オペラのブリテン『ビリー・バッド』。なんかちょっと1回見ただけではどうにも判断がつかない演出だった。クラッガートはビリーにキスしようとしてたし、船長も新兵とモブ水兵のキスを見たあとにビリーを救うべきか救わないべきか迷ってたし(=ビリーに対する愛情を取るか地上の秩序を取るかの逡巡? あとビリーを満足させた光景を船長も見ているのは…)、みんなビリーを愛していたんだなって思ったけど本当にそんな演出だったんだろうか。この“理解”は正しいのでしょうか。

 その後GYAOで『長く熱い週末』を観たのだが、私、80年代映画、見方がわかんねえな…とおもった…。